ヨハネ第一2章

2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

 この手紙を書いたのは、彼らが罪を犯さないようになるためです。そのために、一章では、御心を行うことにおいて一つになることをはじめに示し、御霊による者は、罪のうちを歩まないことを示しました。しかし、罪があることも教え、告白することで赦されることを示しました。それらを書いたのは、罪を犯さないようになるためであり、罪を犯してもよいということを否定しています。肉があり、完全に罪を犯さない者でないことは確かですが、だからと言って、罪を犯してもよいということにはなりません。また、仕方のないことと考えてもいけません。御霊によって、光のうちを歩むのが正常な状態であるのです。

 罪を犯さないようになるためですが、それでも罪を犯した時には、御父に対しての弁護者がおられます。その方は、義であるイエス・キリストです。この方が義であることは重要で、この方が義であるので、弁護者として立つことができるのです。大祭司の衣には、金の糸が織り込まれています。金は、義を表しています。

・「とりなしてくださる方」→弁護者。助け主。法廷に立ち、証拠を提出する人。

2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。

 その弁護の働きは、この方による宥めに基づくものです。イエス様の贖いの業のゆえに、義とされていることをもって弁護されます。この方は、私たちの罪のための宥めの供物です。私たちのためだけでなく、全世界のためのものです。

・「宥めの捧げ物」→怒りを宥めるもの。告白されたすべての罪に対する神の怒りを鎮めるキリストの贖いの血による宥めである。

2:3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。

 もし、神の命令を守っているなら、それによって、神を知っていることを知っています。

 ヨハネの手紙は、はじめに命題が示され、その説明は、その後に記されています。

2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

 神の命令を守る人は、神を知っています。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者です。その人のうちに真理はありません。

2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

 神の命令を守っている人は、自分が神を知っていることが分かります。それは、その人の内に神の愛が全うされているからです。すなわち、神の命令は、「隣人を自分と同じように愛しなさい。」というものです。それを実行している時、人間的なものが一切入らない神の愛が全うされるのを見るのです。その人自身が分かるのです。このことは、次のように記されています。

ヨハネ第一

4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。

4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。

4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました

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 イエス様を神の御子と信じた時、御霊が与えられました。それで、私たちが神の内にとどまるものとされました。すなわち、神の御心を示されたとおりに行う者になったのです。それによって、神がその人の内にとどまっていることが分かるのです。そのように、神が私たちの内にとどまっておられることによって、神の愛が私たちの内に全うされるのです。

 これが神を知っているということです。しかし、神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であることは明らかです。その人の内に真理はありません。なぜならば、真理は、神の言葉であるからです。真理と言っているのは、神を知っているという人も、御言葉を知っているからです。しかし、御言葉に示されている真理としての神の御心を行ってはいないのです。それで、真理と言っています。イエス様が御霊によって神の御心を行って歩まれたように、御霊によって神の御心を行うことが神を知っている者の行いです。

2:6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。

 ですから、神の内にとどまっているという人は、当然のことながら、人としてのイエス様が歩まれたように歩むのです。

 「歩まなければなりません。」と、義務があることを言っています。ただし、人の努力としてイエス様が歩まれたように歩むということではありません。肉にはその力がありません。神の内にとどまっているならば、神がその人の内にとどまっておられるので、イエス様と同じように歩むことができるようにされるのです。それを信仰によって受け入れ、歩むのです。

2:7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。

 前の節で、「イエスが歩まれたように歩まなければなりません。」と記されてます。これが命令です。イエス様の歩みは、御言葉のうちを歩むことなのです。すでに聞いているみことばすなわち律法の命令を行うことであるのです。次のように記されています。

ローマ

8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

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2:8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

 光は、「まことの光」と表現されています。この「まこと」は、「真理」とは区別されています。原語では、意味が似ていますが異なる語が使われています。元になるものとの関係を強調しています。「本当の光」ともいえます。次節にあるように、「光の中にいると言う」人がいたからです。彼らは、まことの光を受けていないのです。まことの光は、真理を明らかにします。人は、それによって真理を知り、真理のうちを歩むものとなるのです。

2:9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。

 光の中にいるとは、真理の光としての御言葉に照らされて、真理のうちを歩んでいることです。そのように言いいながら、兄弟を憎んでいる人は、今でも真理を知ってはいないし、真理のうちを歩んでもいません。

2:10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

 自分の兄弟を愛している人は、光の中にとどまります。その人の内には躓きがありません。

ヨハネ第一

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

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 神に愛されているので、兄弟を愛するのです。互いに愛し合うことは、御霊の内住により、御霊の実として実現することです。兄弟を愛することは、御霊が内住していることの証しなのです。それで、私たちは、神のうちにとどまり、神が私たちのうちに留まっておられることが分かるのです。そのような人が躓くことはありません。その人の内で、神が業をしておられるからです。

2:11 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。

 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は、御霊が働いていないのです。御霊を消し、闇の中を歩んでいるのです。神の言葉に従っていないのです。肉に従っているのです。そのような人は、教えとしての真理がないのですから、どこへ行くかわからないのです。真理に照らされていないので、それを受け入れる目としての信仰が働きません。兄弟を憎むことで、信仰が働かなくなるのです。

2:12 子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

 ここからは、四つの範疇にある人たちに手紙を書いた目的を示しました。初めは、子どもたちに対してです。子どもたちという表現は、信者全体を指し、ヨハネにとって愛すべき人たちとして呼びかける言葉です。その人たちは、イエス様の名によって、罪が赦されていることを覚えさせるために記しました。罪赦された者たちは、罪のうちを歩まないし、兄弟を愛するのです。たとい罪を犯しても、告白するならば赦されることも教えました。

2:13 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 次は、父たちです。彼らは、初めからおられる方を知るようになったからです。初めからおられる方は、主イエス様のことです。

ヨハネ第一

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

 イエス様を知ることは、罪赦されたことから進んで、イエス様と同じ者に変えられることです。この知るという語は、体験として知ることを表す語です。そのように主を知る者たちに対して、御霊によって歩む者が主の内住により、完全な愛と聖さを全うする者であることを教えました。

 若者たちは、悪い者に打ち勝った人たちです。彼らは、悪い者との戦いの中にありました。肉が働くので、戦いがあるのです。父たちは、完全に御霊によって生きている人たちであり、若者たちよりも高度な歩みをしている人たちです。若者たちが戦いに勝利したことは幸いですが、もっと高度な歩みがあるのです。

・「知る」→経験として知る。

2:14 幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。

 そして、幼子について取り上げ、彼らは御父を知るようになったからです。彼らは、教えにおいて、清さにおいて、まだ確かな歩みの中にないのです。しかし、父を知っています。父の愛を知り、それに応えて歩みをする人たちです。手紙の中で、「幼子たち」と呼びかけられている箇所は、そのような人たちに対して特に教えています。

ヨハネ第一

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

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 次に、若者たちについて、再び呼びかけています。彼らは、強いものであり、悪い者に打ち勝ちました。神の言葉が彼らのうちに留まっていたからです。

2:15 あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。

 そして、全員に呼び掛けられています。世をも、世にあるものをも愛してはならないと命じました。もし、誰かが世を愛しているならば、その人の内に御父の愛はありません。これは、父がその人を愛していないという意味ではありません。世とその中にあるものを愛していることは、御霊によらないのです。肉によることです。それらを愛することで、御霊が働いていないならば、その人が神の愛を現すことがないことを言っています。

・「あなたは」→二人称、複数形。あなた方は。

2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

 世を愛することは、欲から来ていることが分かります。それは、父から出たものではなく、世から出るものです。世自体は、何かを働きかけることはありませんが、それが世の欲であることが次節からわかります。

 肉の欲は、食欲、睡眠欲、排泄(欲求)、呼吸(欲求)、性欲などがあります。これらは、体の維持に必要なものです。これらは、肉の欲です。また、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求の5段階に欲求を分類する考え方があります。生理的欲求は、肉の欲です。それ以外の欲求は、暮らし向きの自慢に分類される欲です。目の欲は、これらの分類には入らず、美しいものや魅力的なものを見ることで引き起こされ、心奪われる状態です。

2:17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。

 世と世の欲は、一時的なものです。この世に生きている間だけ関係することです。箴言に記されているように、何の喜びもないという年月が来るのです。体が衰え、もはや感覚さえ失われていき、欲などなくなるのです。

 しかし、神の御心を行う者は、いつまでもいます。過ぎ去ることはないことです。イエス様と同じように、永遠に存在し、栄光を受けることを言っています。

ヨハネ

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

「メネイ エイス トン アイオナ」:いつまでもいます。このフレーズが同じです。

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2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

 幼子たちに呼び掛けました。ここでは、教えの誤りについて教えています。彼らが惑わされないためです。

 今が終わりの時であると言いました。それは、反キリストが大勢現れたからです。それは、終わりの時の特徴です。ただし、そのことは、今でも続いています。二千年経っても続いています。終わりの段階であることはその特徴から分かることですが、いつまでそれが続くかは分かりません。

2:19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。(なぜならば)もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。

 反キリストと言われる人たちは、私たちから出て行きました。しかし、私たちからの者ではありません。なぜならば、私たちからの者であれば、私たちと共に留まったでしょう。しかし、それは、その結果として、彼らはすべて、私たちからの者ではないことが明らかにされることになるためです。

 「エク ヘモン:私たちから(の者)」という表現は、ヨハネたちから伝えられた真理から生まれた者という意味です。反キリストは、その真理を否定している者たちのことです。

・「から」→エク。「~から、~へ」(結果);内から出る。

・「明らかにされる」→アオリスト接続法、受動態。別の述べられた動作の結果として起こる明確な結果。

2:20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。

2:21 私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて、真理から出ていないからです。

 注ぎの油は、聖霊のことです。聖霊によって、真理を知っています。反キリストは、御言葉を知っていましたが、それに反する考えを持ちました。真理を知ってはいないのです。

2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。

 反キリストは、偽り者でした。それは、彼らがイエスがキリストであることを否定していたからです。御父と御子を否定していました。

2:23 だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。

 誰でも、御子を否定する者は、父を持っていません。御子を告白する者は、御父も持っています。神を持っていると言っても、御子を否定するならば、御父を持っていません。

2:24 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

 初めから聞いたことを自分のうちに留まらせるように命じました。初めらか聞いたことが留まっているならば、あなた方も、御子と御父の内にとどまるのです。

ヨハネ

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

 愛にとどまることは、戒めを守ること。

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・「聞いていること」→アオリスト、直説法、能動態。聞いたこと。

2:25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

 御父と御子のうちに人はとどまること、それが約束された永遠の命です。

ヨハネ

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

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 主の内にとどまる時、主は、その人の内に留まられ、その人は、主によって生きるようになります。それが永遠のいのちです。

2:26 私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。

2:27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。

 御子から受けた注ぎの油は、聖霊のことです。その聖霊が留まっているので、誰かがあなた方を教える必要はありません。その同じ注ぎの油が、あなた方に全てのことについてを教えます。それは、真理であり偽りではありません。注ぎの油があなた方に教えたように、あなた方は、御子のうちに留まります。

 人に真理を教えるのは、聖霊です。教者の働きは、大いに益があります。しかし、思い上がってはいけません。聖霊が教えるのです。また、聞く者も、聖霊によって歩んでいるのでなければ、真理を知ることができません。

・「とどまりなさい」→現在、直接法、能動態。命令形ではない。とどまります。

2:28 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。

 子供たちに呼び掛けています。キリストのうちにとどまるように命じました。そうすれば、キリストが現れる時、私たちは、恐れることになることがなく、恥じることになることがありません。

・「確信」→人々の前でも神の前でも、恐れずに話し、行動し、近づくことのできる紛れもない自由を示す。

2:29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。

 あなた方が、神が正しい方であると知っているならば、あなた方は、義を行う者も皆、神から生まれたことを知っています。正しいことを行うのは、聖霊によるからです。それで、神から生まれまたことが間違いのないことであるのです。

ヨハネ第一

3:9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

 神の種は、聖霊のことです。聖霊を内住したのです。神から生まれたのです。その人は、罪を犯すことができないのです。義を行うのは、聖霊によるからです。神から生まれたことの証しなのです。

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・「分かるはずです」→知る。現在、直接法、能動態。知っている。分かる。